時刻表

                        
                  
                                 
                 



 東京都下、国立の駅前です。駅舎から続く広い車道、きれいに植樹された歩道並木、それらはぼくをなんとも不思議な世界に誘います・・・

「いきなり何のことだ・・・?」ですよね。


 あの、すこしの自慢にもなりませんが、ぼくにはすこしばかり妄想癖があります。でね、そのぼくの妄想なんだけど、これがまるでとつぜん、なんの前触れもなく始まる(あたりまえかな)のです。でもって気がつくと、なにやら不思議な、怪しい、妄想世界にどっぷり浸かっている自分がいます。


 その日は、ちょっとした用事で国立の近くまで足をはこびました。駅の北側からガードを南側に抜け、すこしばかりエキゾチックな駅舎を右手に見ながら車を南に。広い車道の両側も国立の駅前はやはり広い歩道です。植裁に見え隠れする洒落た店は、無遠慮だけど人と風景を飾ってくれています。


 なにやらぼくの精神が怪しい雰囲気になりはじめました。最近はね、歳を重ねたせいか、以前であれば妄想と現実がゴチャマゼになって、そのまま一日が過ぎていくなんていう、危ない日がけっこう多かったのですが、それでもそうした前兆に気がつくことが多かったのです。でもね、最近はいつまでも気がつかないことが多く危険です。ぼくは大事をとり少し先のファミリーレストランに車を。妄想はおさまりました。


 ぼくが妹の存在を知ったのは、中学生のときです。いえもっと正確に言うと、それは小学生の頃と言えるかもしれません。驚愕とかそういうたぐいものは一切有りませんでしたね。ぼくはすでに、家族とか親とか、そういう方向での驚きを一切持たなくなっていましたから。


 誤解があるといけないので付け加えると、それは期待を持つことへの恐れからです。だから、いまぼくが拠り所にしている家族への安堵感が、不自然に恐れへと継ながる可能性を拒否します・・・少し難しいな。


 突然だけど一人旅は心を開放します。たとえ妄想でもね。ただし開放が過ぎると悩みます。そしてすれ違いや行き違い、そして過ちの心違いが、たとえそれが誤解だとしても心を傷つけます・・・やはり妹の話はやめましょう。悲しすぎるからね。


 秋の雨が、無遠慮に、つめたく、ぼくとケンタクンを濡らします。もちろん無遠慮はぼくの責任で、ただ傘をさしての散歩が嫌いだから、だから濡れながら、すれ違う人に奇妙に思われながら歩きます。でも風景は他の人を拒否し気にする余裕をぼくに与えません。それがぼくの人生だから。


 ケンタクンは飼い犬です。彼は来年で15才になります。1年365日ぼくは彼と毎日散歩をします。日課です。いまは家族以上にぼくと同じ時間を共有しています。15才の彼は、すこし老いが目立ち始めました。悲しいけどやはり、やっぱり秋がやって来ましたよ。そして準備をする暇もなく冬がやって来るのでしょう。残念。


 ぼくの妄想は楽しいものばかり、愉快なことばかり。それだけに秋はつめたく、現実は悲しい。


 いま一人旅のための時刻表を、また性懲りもなく探しています。路線図には赤線を引くつもりです。どのような経路を選ぶかはぼくが決めます。絶対にね。決して他人の思うままに人生を送りたくないから。