すばらしい明日に
すばらしい明日に
やけに空が騒がしい、そんな表現がぴったりな空模様でした。雲の動きははやく、ときおり怒ったように、いやいや思い出したように、大粒の雨が落ちてくる。そんな荒れた空、同様にぼくの精神はいつも以上に騒々しく、そして荒れています。
少しばかり予定を早めた仕事先に、出かけました。仕事を終え、暇を告げると、その家の主人であろうお年寄りが、ぼくをお茶に誘ってくれました。荒荒とした精神には、ありあまる休息が必要です。ぼくは喜んでお招きを受けました。
通されたリビングに入った瞬間、ぼくは部屋中に飾られた写真に圧倒されました。そこには季節ごとの風景・季節ごとの花・異国の景勝地等々でいっぱいです。そして奇矯な感覚に、その意味に、ぼくは子犬のように首を傾けます。見守る老婆は笑ってましたよ。
少しばかり極端だけど、たぶんご自身で撮られたであろうそれらには、なぜか命が見当たりません。奇妙だよね。とにかく人の気配を意識して除いている。ぼくにはそう感じられました。そしてそう確信しました。
写真から受ける感覚にとまどい、そしてなぜか早まる動悸にもとまどいます。いつものように、いえいつも以上に話すきっかけがつかめず、ぼくはただ出された紅茶をいただきます。このお年よりは、どのような半生を過ごされたのだろう、ぼくは唐突に自分の半生に。
ぼくが一人で生活を始めたのは16歳です。巣鴨の4畳半のアパートは、スプリングのきついベッドが部屋のほとんどを占領していましたね。無機質な部屋にはベッドと机とレコードプレイヤー、そして無造作に積まれた本だけ。
極端といえるほど感情を出さないぼくを、気にして、ある日突然高校の担任がやって来ました。部屋をみて、机を見て、本を見て、そして少しのあいだぼくを見つめて・・・多くを語らず帰りました。だから来ないほうがいいといったのに。
机上の読みかけ本は、『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』『都市の論理』・・・
生活に、日常に、ぼくはずっと深くかかわることができませんでした。正直なところ今でもそうなのです。いつも意識は仮住まい、家庭を持ち家族を持った今でもね。パートナーにはたいへん失礼なはなし、だから本音を言えません。
浮遊し、漂流して、けっして出会いがない旅を、いまでも続けている、それが正直な実感です。あのね、過ぎたことを、運命などという言葉で結論付けることは、そんなふうに簡単に言える環境は、とっても贅沢です。だから自身に疑問を投げかけます。どこかで妥協をすることができたのではないのだろうかと。
リビングに飾られた写真を見ながらしばらくのあいだ、ぼくは何も言わずにお茶をいただきました。だいぶん失礼でしたね。
老婆はそんなぼくを、何も言わずに見守ってくれています。そしてぼくは、初対面の仕事先のお年寄りに、無言という、とても素直な感情をあらわにしていることに、いくぶんとまどいました。
写真から受ける感覚は、意味もなくぼく締め付けました。いえきっと、きっとそこには意味はあるのでしょう。ただ過ぎ行く過去に意味を見出すことを、いつも、いつでも、いっしょうけんめい抑えてきたぼくには、その風景を問うことができず、ただ見つめるだけ。それがせいいっぱいです。
上等なティーカップ・香りのよい紅茶・セピア色の写真・凛としたたずまいのご婦人・そして精神が青二才の職人・・・どうにもチグハグだね。