精霊達に・・・


                   



精霊達に・・・



 秋が実感できるさわやかな空気に、匂いに、その音楽に、ぼくらはもっとワクワクしなければいけない。寂しさのきっかけともいえる秋と、まるで正反対の秋がそこにあることを、意識して楽しもう。そう思い始めました。いまさらだけどね。


「秋というだけで俯くことはね、やめなければいけないね。そうじゃないと、つまんねぇや。」ぼくはこの時期、涙目で遠くを見つめ、時折「フォン」などと小さな声をだし、悲しい目で下を向いているケンタクンに、偉そうに説教をします。


玄関の扉を開け、秋に一歩踏み出せば、白・紫・ピンクと、背高ノッポのコスモスたちが、それぞれが、競うように咲き乱れています。なんとも贅沢な景色です。


そんな贅沢な景色もね、うっかりして視線を左右にずらせば、残念なことに景色は人工物だけが、まるであたりまえのように連なっています。だから一方向とはいえ、いっぱいのコスモスが咲き乱れる場所があるだけで、そこは天国、ありがたいと思わなければいけません。


人工物がいっぱいの景色、そんな街が普通で、自然で、あたりまえであることに、ぼくはときどき反発を覚えます。疑問を感じます。ほんとうはさ、草花がイッパイ、木々の緑がイッパイ、原色に囲まれた風景がイッパイ、でもってそれがあたりまえで、それが普通で、灰色の人工物なんかは、その中にポツンポツンとあるべきなんだ・・・


たぶんそんな独り言が、そこいらが、キチンとした大人達から「キミはいつまでも青臭いね」といわれる所以なのでしょう。でも精神がガキで青臭いぼくはこう思います。キチンした大人達は、ほんとうはぼくとおなじ思いを持っていて、けどその反発や疑問を、意識の外で、どこかに封じ込めてしまっている。ってね。


ほとんどの街の造型物は、人の手に成るものばかりです。道路・電信柱・家々・ビル、残念なことにそんな街模様から、ぼくたちは一時も逃れる術をしりません。逃れることが重要なことを・大事なことを・・・意識することさえできないようです。考え過ぎでしょうか。でもなぜなんでしょう。大問題だな。


「だったらさぁ、田舎にとっとと行きゃあいいじゃないか」そんなこえが聞こえてきそうです。しごくごもっとも。でもね、ちょっと考えると、ちょっとガキのたわごとに耳をかたむけていただけると、そこいらのガキの真意が、あるいは見え隠れしているガキのピュアな響きが、少しおわかりいただけるかもしれませんよ。


ガキの代表でもあるぼくは、秋の始まりのいまどき、すべての秋を意識して感じます。楽しみます。幸いにも、我が家から歩いて37秒のところにある、大きく、ある程度の広さを持つ雑木林は、意識の結界をぼくに与えてくれます。もちろん聖なる領域がどちら側あるかは、ひとそれぞれです。決め付けることは無意味でしょう。


ぼく自身に限れば、結界の俗なる領域は自身が棲む街です。聖なる領域はわが心なのです。そして意識の根底に住まう雑念を追い払うため、積み重ねられた無意味な常識に逆らうため、さらに自然がなんなるかを意識するため、気づくため、そのために雑木林に逃げ込みます。助けを求めるのです。


そんな自分勝手な理由でもね、存在そのものが聖であるそこは、雑木林は、優しくぼくを許し、全身で抱え込んでくれます。毎日のようにね。なにしろ雑木林の中に入れば、冬の一時期を除いて、そこは人工物がまるで見えない場所なのです。ぼくは結界を越えるべく、意識して反対側へ行くために、そんな舞台を利用します。


木々に囲まれ、ワクワクしながら集中すれば、いろんなものが出現しますよ。木々のあいだから誰かがぼくを見ていたり(これを普通のキチンとした大人は気のせいといいます)、ビックリするぐらい大きなクモがぼくに笑いかけたり、首筋がザワザワと感じるほどの精霊たちをね。


人々は社会という造型を、当たり前のように規定しています。そう感じてなりません。当たり前が、その基準が、いかなる要素で成されるかを考えることは、それほど大それたことではないように思います。


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