北風が吹き抜ける瞬間に

 冬の風は冷たいなんて、そんなことはわかりきったことなんだよ。ちょっと顔をしかめてぼくはちいさくつぶやきました。

 ある時は突然やってきます。ちょっとへんてこな表現だけど、いまのぼくにはそれが一番気持ちをあらわしいやすい言葉です。

 ときどき、理由もなく、なんの根拠もなく、説明のつけようのない衝動に心をゆすぶられることがありませんか。でもそれはね、たぶん気が付かないだけで、ほんとうはずっと続いている、心の深いところに積み重ねられた、ちっぽけだけど理由の歴史があるはずなんだね、きっと。

 でね、それが、それが突然胸いっぱいにあふれ出ることがあるのです。記憶容量が決まっているんだねきっと。とくに突然であるばあるほど、やはりゆすぶられる心は激しく躍ります。

 外付けの記憶デバイスがこんなとき使えれば、きっとぼくは重宝するでしょう。

 人はそれぞれ、こころの奥深くに、いくつかのこだわりを持っているようです。尺度は必要ありません。測ることは無意味だからです。そう思います。

 そのこだわりが、ときとして心を、精神を揺さぶるのでしょう。ぼくはそんなとき、遠慮なく涙を流します。それでもね、まだ、ひとなみに羞恥心があるらしく、そっと林の奥深くで涙をながします。

 たぶんぼくは、こんなふうにいつまでも、いわゆるキチンとした大人にはなれないのかもしれません。それでも羞恥心を忘れないことや、あるいはむき出しの感情の表出が、若者の特権とはおもいませんよ。

 さらに思います。精神の奥底のこだわり、続く心の揺れ、そしてさらに続く激しい感情表出の衝動を、ぼくらは、大人や若者は、だいぶん抑えすぎているのではないかとね。

 毎日書き連ねる、それこそある人に言わせると無意味なぼくの文章の束も、ぼくには大事な作業です。そしてできれば、もっと素直に表現できればとも思います。

 人の気持ちも、奥底を表現する心も、キチンと言葉にしてあらわすことができればいいなと、いつも真剣に考えています。だからね、だからあまり作法にはこだわりたくないのです。というよりこだわることができないのです。

 すこしわかりにくいけど、ぼくは存在しないものへ言葉投げつけています。それは飾ることを拒否することで成り立ちます。身にまとう衣は身を守ると同時に身を隠します。言葉も同様でね、飾ることであらゆる防護線をはることができます。そのかわり真意を薄めます。

 友達が今朝旅立ちました。えとね、ぼくは普通ではないのでね、友達は人間だけではないのです。少し不謹慎と思われるかもしれませんが、先月なくなった長兄よりも悲しみは深いのです。笑っちまいますよね。

 友達はぼくの飼い犬の友達でもあります。だから切ないです。早朝の北風は、なんとも冷たく、やはりそれはいつもより冷たくありました。