I want to meet once again 

誰か特別な人に会いたいということでもないのです。

 しいて言うとしたら、それは「風景」にと言えるかもしれません。ちょっとキザかなぁ。自分で言っといてなんだけど、ちょっと恥ずかしいね。

 まぁでも言いたいことをわかってもらうために、そのままにします。風景をもう少し説明すると、そこには「思い出」という言葉が付きます。つまり思い出の風景に会いたいのです。

 風景にはもちろん人物も登場しますね。人物が重要な場面となる風景もあるでしょう。また、ただの景色が重要なこともあります。あるいは、道端の一輪の野草に、その役割を持たせることもできますね。

 大事なことは、風景に思いを馳せる何かです。その何かが、風景を求めメロディを求め空気や風を求めるのです。皆さんはどうかわかりませんが、ぼくの場合はそうなんです。

 でね、ぼくは風景を切り取ることが苦手です。部分部分ではダメですね。ぼくの風景はいつも動いています。そうでないと妙に悲しいのでね。ここいらはちょっと説明がむずかしいな。

 つまりね、絵が固定されると、そこにある希望や、期待や、悲しみや楽しさが、すべて浮かび出てしまうのです。立ち止まるのでね、そいつらが飛び出てしまうのです・・・

 止めといた方がいいね。説明すればするほどトンチンカンになる。基本的に脳みそがトンチンカンだから、こいつはどうやったってキチンと理解してもらうのは無理なんだろうね。

 けどねぇ、なんとなくでもね、このオッサンの気持ちをわかってもらえるといいなぁ。そんな期待があるんだけど、まぁ、そこいらはどうでもいいや。

 さてぼくの風景は、いつも音楽にのって現れます。けどそれは、自分が大好きだった曲だからなんて、とても言えるような曲ではありません。なにせ物心が付くか付かないかの時代のそれですから。

 でもそれは、どうしても風景に引っ付いています。無理やりではないのです。だからそれはセットなのですね。バラでは思い出す意味がなくなりそうです。なぞそうなるかは、よくわかりません。

 映像はセピアカラー。お約束のような色合いですが、やはりこれもセットだなのです。

 もう一度見たい風景、見たい風景に登場する人、それらは、やはり、セピアカラーです。

 I want to meet once again 

 最初の言葉を訂正します。ほんとうは、正直に言うと、風景の中のあなたに、できればもう一度お会いしたかったのです。でもたぶん、もう、お会いすることはないでしょうね。たいへん残念です。