たまには考える

 
        


 きょうはちょっと考えてみました。

 下の文書はね、去年ノーベル文学賞をうけた Doris Lessing の受賞スピーチにおける一部分です(実際は代読とのこと)。ぼくにとっては、とても残念なのだけど、彼女はそこで「インターネットは人類を愚かにした」と非難してたのです。

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「私たちは、ばらばらになりつつある文化の中に生きています。わずか数十年程度むかしの確実性が疑われる時代に。

 たとえば若き男女が、延々と教育を受けても、この世界について何も知らず、何も読まず、ただいくつかのの専門的な、例えばコンピューターのことだけを知っているような若者の時代。

 私たちに与えられたのは、驚くべき発明でした。コンピューターと、インターネットと、そしてテレビ、これは革命です。けれどもこれは、私たちに与えられた最初の革命というわけではありません。

 印刷革命は決して10年やそこらで広まったものではありません。長い時を経てゆっくりと、私たちの心と、物事の考え方を変革して行きました。 そして私たちは何も考えずに、そうした変革を受け入れました。この印刷革命の先にはどのような私たちがあるのかなどと、問い直すことはありませんでした。

 同じように私たちが直面するこのインターネットが、私たちの生活を、あるいは思考を変えるのだろうかとは私たちは問いません。

 すべての世代を魅了する無意味な空間、分別ある人でさえ告白しているように、ひとたび接続すれば容易に逃れることができないあの無意味な空間が、私たちをどのように変えてしまうのか。ブログを眺めながら一日が終ってしまうような状況が、何を私たちにもたらすのだろうかなどということを」

                       意訳 深津 勝

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 どうです、みなさんどういうふうに受け止めますか。

 スピーチには、無意味な空間であるインターネットが若い世代を蝕んだために、われわれ(たぶん中高年齢者)との文化にとても大きな亀裂ができたといっています。断片化されてしまったと主張しています。

 若いものは誰も本を読まず、そして世界についてまったく無知になってしまったのだそうです・・・ぼくはね、そのこと自体はそれほど外れているとは思いません。ただそのことがストレートに批判の矢となってしまっていることが残念なのです。

 彼女の発言はね、彼女の活動を、その著書を知っている方々であれば理解できるように、その背景としての南北問題が深く関わっています。そのことをまず理解する必要があります。

 さらにさらに、ここがとっても大事なことでポイントなのだけど、格差(地球規模としてのね)を、それこそ小指の先ほども感じない社会に生きているぼくたち自身の、大いなる反省がなければ、その真意をほんとうに汲み取ることができないということを理解する必要があります。

 つまり多くの、生まれながらにしてあたりまえに文化を享受することができ、そしてそれこそ今日どうやって生き延びることができるかといった、ギリギリの生をまともに理解することもできない人々がね、そういったエライ連中がね、彼女のスピーチに悪乗りしてインターネット社会を批判することだけは許すことができません。絶対にね。

 なんどでも言います。いわゆる上流に位置する人々が、彼女のスピーチに悪乗りして、無認識にインターネット社会を批判することは避けるべきだとね。

 彼等エリートが、ある意味特権的に持つことができた文化は、ただただ権力を集中させました。そのことの反省が先だということを理解してほしい。そしてその特権を、少ないコストで、私たち一般の民衆が手に入れられる手段がネット社会にあることを理解してほしい。

 もちろんインターネットのほとんどがね、まったくもって無意味な空間がであることを、ぼくたちは理解してます。表現の場が、ただただ個人の感情の表出となっていることも事実でありわかっていますよ。

 でもね、少なくても権力者から与えられる情報のいい加減さより、ぼくらが、自分たちの責任において集める情報の方が、たとえそれがてんてこもりのクソ情報であろうとだよ、うんと意味のあるものであることをわかってほしい。繰り返すね、そこんところが一番のポイントだということをね、理解してほしい。