お礼

           


 ちょっと前のことだけど、ネットで話題になっていたことがあります。それは「お礼」についてでした。どんなことかと言うと、たとえばファミリーレストランなどでね、コーヒーのおかわりのサービスを受けたときなどに、ぼくなんかは普通に「ありがとう」と言葉がでます。


 めずらしく普通のぼくがそこにいます。でもね、その「ありがとう」に反発する若者が増えているらしいのです。


 もっともぼくが普通ってことは、世間では普通ではない!なんていう声がアッチコッチから聞こえそうだけどね、そこいらはまぁ横において、とにかくぼくでも普通に出る言葉なのですね。


 でね、ここからがなんとも妙なんだけど・・・つまりぼくみたいな団塊世代の端くれの、その「ありがとう」を言うものが、もうずいぶんと少なくなっていた世代でも、まぁまぁそこいらは普通に聞こえるのです。そういう風に礼をいうことがそれほど奇妙ではないということです。


 ところが、ここからがなんともびっくり、そのネットで沸騰していた話題では、給仕するほうの側、つまり若い兄ちゃんだの姉ちゃんだのは、その言葉に不愉快な感を受けるとのことです・・・


 えーといま言ったことがそもそもわからないという人々もいることは承知します。だからとにかく最後まで読んでくださいね。フゥ。


 あのね、知らない人から「ありがとう」なんて言われると「むかつく」のだそうです。ぼくはこれを聞いて最初はふざけているのかと思いましたね。でも冗談ではありませんでした。


 えーとですよ、キミらはいったいなんのお仕事をしているんでしょう。キミらはなんでサービスに対してのお礼を拒否・不快感を持つのでしょう。キミらのその感性はいったいどこで形成されたのでしょう。キミらはほんとうに、そのような感性に対して、小指の先ほどの・・・


 無駄かもしれないね。

 ぼくはね、いまの日本社会のあり方について大いなる疑問を持つものです。国のあり方を変えたいとも思っています。でもね、それでもとてもメタな部分では、つまり人間社会の蓄積された大いなる知恵については、そのもとにひれ伏します。


 簡単に言えばこういうことです。自分頭の中の、精神の中の、内なる、ここが大事ナポイントです。その自己の内なる「神」の存在を信じるということです。ちょっと飛躍しすぎかぁ。

 まぁいいや、とにかくそれは誰かが自分の言いように解釈して作った神仏とは違います。自分たちの都合のよいように解釈し、それでもって政治にまで介入する神仏とは断じて違いますよ、そこいらは注意してくださいね。


 そのぼくが、やはり奇妙に思うのです。どうしても理解できません。ぼくはときどきレストランで一人で食事をします。コンビニで弁当を買うより安上がりだからです。でもね、なんだか最近はちょっと複雑な気がします。「ありがとうが」いままでのように普通に言えなくなってしまいました。


 もちろん言いますよ。でもなんだか相手の顔色をうかがっているぼくがそこにいるのです。とんでもなく残念です。それでもね、今日みたいに天気がよく、小鳥がうるさいくらいさえずり。飼い犬が気持ちよく日向ぼっこなどをしている朝は「ありがとう」と普通に言います。お天道様に向ってね。





 ありがとう


 まいにち言える今日をよろこぼう

 明日の生を気にするこななどない今日を

 音におびえないで暮らせる今日を

 お腹を空かせて街をうろつくことがない今日を

 敵を殺さないで暮らせる今日を

              深津 勝