旅立ち

           

                  旅立ち

少年の頃から、そしてもうすぐ老境に入る今も、ぼくはたとえそれがどんな小さな別れでも胸が締め付けられます。ただただ、なんともだらしなく「別れ」が辛いのです。


始まりはずいぶんと昔になりますよ。ぼくが4・5歳のころ、唯一の仲良しであったジョンという名前の犬を、目の前で、酔った黒人兵に殺されました。狂ったように叫び、手を振り上げながら黒人兵に向かっていくぼくを、その光景を、どうしたって忘れることができません。


楽しいことや嬉しいことがいくらでもあったはずなのに、そこいらの記憶は何処かへ行ってしまい、ぼくにとって灼熱地獄に値するような、そんな記憶だけが、光景が、どんなに忘れたくても取り去ることができないのです。いまでもね。


光景の描写は止めておきます。どんなに言葉を選んでも、どれだけ大人の文章体裁に挑戦しても、読み物にはなりません。ぜったいにね。ただ、これだけは申し上げましょう。


黒人兵に向かっていくぼくを必死に止めてくれたおじさん、まわりにいた知らないおじさんやおばさんがみんな、みんな、その黒人兵を鬼のような顔で睨んでくれていたことをね。


たぶんそんなとんでもない経験が、いまのぼくのすべての基礎になっているのでしょう。そう感じます。そしてそんな地獄絵図が、ぼくが自分で意識することができた最初の「別れ」です。


その後も、いわゆる世間ではけっこう辛いとされる別れを経験しましたよ。でもね、最初のうんと辛い別れを経験したぼくには、どーってことはありませんでした。「そうかい」って感じです。だから相手にはね、ずいぶんと心根の冷たい子供と思われたことでしょう。


家族を持ち家庭を持ち上の子が小学生になった年に、我が家に子犬が同居を始めました。知り合いから犬をもらってきたのです。子ども達のためではありません。漠然とですが、今振り返ると、たぶんぼく自身がなにかを求めていたのでしょう。そう感じています。


犬は、ぼくらよりうんと短命でうんと感受性が強くてうんと純粋です。それだけにぼくらが接することで、彼らが受けるであろう意識には、心を込めた愛情が不可欠。小手先のテクニックなどはすぐ見破られてしまいます。


かれらに純粋に接する努力が、中途半端で、いつまでも子供で、たいそうわがままなぼくを大人にしてくれました。以前と比べればうんと大人になりました。まだ不十分ですけどね。


ときどき思い出す彼らですが、ぼくをどう意識してくれたか、みんなぼくと一緒に過ごせて楽しかったか、よい一生だったか・・・なんて、バカみたいに気になります。だから、いまでも精一杯、後悔のないように接しています。


かれらへのメッセージ


「旅立ちの時は、どうかいい記憶だけを、楽しかったことだけを、そしてぼくの精一杯の気持ちを持って行ってください。お願いします」 




 石



 どこにでも転がってるとおもうなよ

 「石ころ」なんて呼ぶなよ

 裸足で歩くことなんかないんだろ

 だったら嫌うなよ

 排除することはきれいなことなの

 ちがうだろ

 石投げるぞ

             深津 勝