新聞を読むこと

      


新聞を読むこと


自分の裁量で初めて新聞を取ったときのことを、一生懸命に思い出そうとしているのだけど、なんとなく漠然とした記憶しかない。みなさんはどうなんでしょう。



ぼくはたぶん16か17の頃です。当時ぼくは神宮球場のまんまえにある高校へ巣鴨から通っていました。おばあちゃんおじいちゃんの街巣鴨に住んでいたのです。



もっともぼくは隣の駒込で、幼稚園から小学生中学生と神童と呼ばれた時代(自分でそう思っているだけ)を過ごしたので、巣鴨はよく知っている街でもありましたよ。



当時はまだそれほど有名ではなかったけど、小さい時分から4の日には巣鴨の縁日によく親に連れて行かれました。なもんで今の流行がなんだかピンときません。でね、高校に上げる年に親達は鎌倉へ引っ越してしまったのだけど、ぼくはそのまま巣鴨にアパートを借りてもらい、そこからちょっとのあいだ高校へ通っていました。



たぶん新聞はそのときに頼んだのだと思います。それが始まりです。いまでも朝はキチンと新聞を開きます。読み方はずいぶんと替わったけどね。最初に新聞が来たときは、なんだか妙に興奮したことだけは覚えてますよ。きっと鼻を膨らましていたことでしょう。



さいきんは新聞を読む若者が減っていると聞きます。ほかに媒体が、つまりインターネット等で簡単に、無料でしかもタイムリーな記事が読めるからというのがその代表的な要因らしいです・・・でも、それってほんとうかなぁ?



ぼくはね、人に言わせるとずいぶんとヒネクレテいるらしいのだけど、あまり世間の考えに同調しません。もちろん蓄積された、あるいは年を重ねることで修練されていく意見考えにはそれなりの敬意を示しますよ。けどそれとて無神経に頭から信じて同調することはないのです。



ここいらがヒネクレテいるといわれる所以でしょう。まぁとにかく、その代表的な要因に?マークがついてしまいました。さてヒネクレオッサンの頭では、多くの普通の若者が、はたしてほんとに、ポータルサイトのトップから記事を選んで読むといったダイソレタ・・・行動を、こまめにしょっちゅうやっているとは思えないのです。



もしほんとにそうであれば、それはたいへん喜ばしいことで、日本の社会なんかは10年も経たずに識者の若者でいっぱいになります。でもってウンコみたいなアホバカ議員などは、そういったキチンと物事を選択的に考える若者に、どんどんどんバトンタッチされていくはずです。



なんつったって、我が大日本帝国にはキチンとした「選挙」があるのですからね。



ただねぇ、少ないオッサンの知り合いだけの話ですがね、そういったあるていどキチンとした社会組織でお仕事をされているキチン大人でさえ、目的をもって選択的に(ポータルサイトでニュースを読むということはそういうこと)記事をネットで見る人は皆無なのです。



いえね、もちろんそこいらにいる普通の若者とキチン大人を比べることはできませんよ。できないけど、けど参考にはなるでしょう。なにせキチンと仕事をしているのですから。



だから、そこいらの報道や見識は、ただただインターネット社会の表層を、期待的にみているだけなんだと思うわけです。



今朝もぼくはね、飼い犬の凶暴な体当たり攻撃をかわしながら、なんとか新聞を家に持ち帰り、一呼吸いれてスポーツ欄を開けましたね。でもってウムウムといいながら、大人の顔でキチンとスポーツ記事を読み、そのまま新聞を閉じました。