埋没は避けたい

       
         


埋没は避けたい



文化や文明にどっぷり浸かっていませんか?その気楽さに、あるいは心地よさに、ぼくらはアタリマエのように生活の基準を勝手に定めているように思えてなりません。でね、アタリマエのように、与えられている環境に準じて生活しているぼくらを、ちょっと振り返ってみました。



キチンと振り返ってみるとね、無思考に浸かっていることはあんまり正しいことではないような気がしてきたのです。だって飛行機で1・2時間も飛べば着いてしまう隣国では、いま、食べるものもなく飢え死にしている人々がいるのです。自由にものを言ったり考えを表明するといった、最低限の自由さえない環境で、ギリギリの生を日常としている人々がいるのですから。



たとえ知らず知らずのうちにぼくらの生活の基準を、成員となっている社会の進展に合わせたものとしていても、あるいは文明社会を当然のこととして受け入れて生活していても、それらはほんとにゴクゴク近い生活の範囲、あるいは地域環境に限られたものであることをね、もっと深く理解すべきだとおもう。



ちょっと大風呂敷を広げ過ぎたかな。書いていて途中でわけわかんなくなるときのパターンが、だいたいこんな書き出しのときだね。だから今日も途中でわけわかんなくなりそうだね。まぁ、いいか。



あのね、ぼくは毎日1時間程度飼い犬と散歩をしているんだけど、なんとその時間は、こうみえてもいろんなことを考えているのです。まぁ、精神が限りなく偏向しているオッサンの思考ですから。そこいらを割り引いて聞いてもらいたいのだけど、それでもけっこうまじめにいろんなことを考えているのですよ。



じつはね、その散歩コースでもある雑木林で、ぼくは、いつも誰かに見つめられている気がするのです。なんだか話しが怪しくなってきたね。時節柄、あまり暑いので怪談の一つでもっていう・・・そういう話題ではないのです。今日はキチンと最後まで頑張るのです。



さてと、ぼくがここに引っ越してきた当初は、そんなことがあってこの雑木林に入ることがちょっと薄気味悪かったことは事実です。でもね、そのうちその見つめられ方に、なんだか優しさが感じられるようになってきたのです。



あるときぼくは木に向かって挨拶をしました。「こんにちは」とね。するとたしかに木々がそれに応えてくれたのです。もちろん「こんにちは」なんていってはくれませんよ。ただザワザワとぼくの心に応えてくれました。そのように感じました。それ以来ぼくは、できるだけ「アタリマエ」のことについて決め付けることのないように心掛けています。



話しがアッチコッチに飛んで申し訳ないけど、このことはけっこう自慢なのだけど、ぼくは「日常」をいつも定型化しないように勤めています。それは埋没することへの不安からです。だからこんな雑文を書いて、ついつい環境に流される自分を見つめなおしているのです。