すこしだけ遠く離れて


    
   
少しなら振り返ってみてもいいかな。ちょっとだけなら。


 なんてね、最近はそんなふうに思うことがよくあります。いえ、ありましたと言った方がいいかな、とにかく振り返ることが多くなったことは事実です。20代・30代・40代・50代前半までは、よく言われる「わき目も振らず」と言う表現が、ぼくの生活そのものでしたから。


 金銭的な余裕がなかっただけではありません。それは必然でした。前を向くことが精神を安定させる唯一の方法だったからです。伴侶を持ち家族を授かった後も、そうやはり安定剤は不可欠でしたよ。だからね、ぼくはいつも前を向いて生きてきました。


 アラカン(アラウンド還暦)のいま、ちょっとぐらいなら振り返ってもいいかな・・・そう思い始めています。つまりぼく自身を正面から見つめることが、もう少し勇気を出してキチンと見つめることが、この先の半生を進むうえで、やはり絶対に必要ではないのか、そう考えたからです。


 そうなると、もともと基本的にオッチョコチョイのぼくは、すぐさま行動に移すことを計画しました。去年の秋のことです。見つめるってことは、辛いことや悲しいことがイッパイイッパイ、なんてことをわかっているのにね。なんとも懲りないのです。でも覚悟を決めましたよ。逃げてばかりではイケナイとね。


 突然ですが先月和歌山へ行きました。新大阪から特急黒潮号に乗って約1時間。ぼくの生まれたところらしいそこは。ぼくの生地と思われるそこは、なんとも山だらけミカンだらけの場所でした。


前もって、一面識もない方が住んでおられるその住所地に便りを出しました。自活を始めて数十年、なんども住所地を変えましたが、いつもぼくの机の引き出しの、一番大事なものをしまってあるその場所には、しっかりと和紙で綴じられ、うす茶になっている謄本がしまわれています。いまでもね。なにしろ唯一ぼくに残されたその謄本には、母のゆかりの土地が記載されているのですから。大事なものでした。


現存しない住所でしたが・・・あのね、なんとこの歳でも、ぼくは我が家ではオタク系と呼ばれているのです。であるのでそこいらはオチャノコサイサイ。あっというまに新住所を確認し、それでもって少々ビクビクしながらですが連絡を取ってみたのです。返事を半分あきらめたころ、一通の封書が届きました。


だいぶん個人的なことなので、少々はしょりますが、やはり赤子の頃の私を覚えていてくれた方からのご返事でした。終戦後のその地では米ができず苦労をされたこと、その他とにかくいろいろ書かれています。また、赤子を連れて東京に出たぼく達を、長いあいだ心配されていたとのこと。とにかくうれしかったですね。

  
とにもかくにも、私を知っている方がおられるということが嬉しく、ぼくは和歌山へ出かけたのです。早急な展開にすこしばかり驚いている先方に、日帰りで出かけること、2、3時間でおいとますることをあらかじめ伝え、とにかく出かけました。


山といっても町からそれほどの距離でもなく、同じ苗字だらけのその集落には、顔中笑みでいっぱいの老婆が3人、ぼく達を待ってくれていました。そうだらしないぼくは、一人で行くことができず、家内を同行させたのです。正解でしたね。なにしろ人並以上に涙もろくなっているのですから。


帰り道、新大阪からの新幹線で夜景をながめながら思いました。孤独ってなんだろうってね。こころのなかに積もる闇は、ひょっとしたら自分でかってに積もらせているのかもしれません。


700系のシートから見る、あっという間の過ぎ去る夜景では、漆黒の闇も、ダイアモンドのように輝く都市も一瞬です。留まることがない風景はこころを休ませてくれました。そしてあらためて返事をいただいたときの喜びをかみしめました。


あのね、届いた封書の、筆ペンでと書かれたと思われる便箋には、太くて、大きくて、カタカナも混じった字が、イッパイ詰まっていましたよ。棟方志功の書を思わせるその圧迫感はここちよく、また愛情に満ち溢れていました。そして封書の最後に書かれてあった「連絡くれてありがとう。うれしかった」の文字に・・・ぼくは壊れてしまったのです。