幸福をねがう

            幸福をねがう


            


 ある調査で、日本人は歳を重ねるほど不幸感を積もらせるという、そんな結果が出ていました。ざっくりとした勘定ですが、欧米では反対に歳を重ねるほど幸福感が積もるようです。もちろん調査のベースとなる社会環境が違うのでね、調査結果をそのままうのみにできません。


 でね、またちょっと考え込んでしまいました。正月なのにね。


 大きな意味での幸福や不幸の分かれ目ってどんなことなんだろう。それはやはり相対的なものなの。じゃあその対するものの基準はどのように決めるの。対するものへの尺度はどのように判断されるの。等々、なんとも正月からの難問です。でね、けっきょくぼくの限られた知性では、やはり限られた答えしか出てきませんでした。


 とくに特殊な出自と特殊な環境で育ったぼくの答えは、限られているだけでなく、とんでもなく偏ってもいるようです。ただ人ごみに流されていた幼年期も、少しばかりの望みをもった少年期も、反抗する相手がいない反抗期も、ぼくはずっと自分の中に映像を持ち続けていました。


 あのね、ぼくは幼年期のある日、突然だけどしらないお姉さん3人に動物園に連れて行ってもらえました。たぶん5歳ぐらいでしょう。初めての動物園です。教会の塔のような形をした孔雀の檻の前で、たまたまでしょう、ぼくがその前に立ったときにね、孔雀が見事に羽をひろげたのを鮮明に覚えています。


 もう一つ覚ええていることがあります。動物園に行く日の朝、女の人が泣いていたことをです。そのひと、たぶんそのときまでぼくと一緒に生活していたであろうその人。ぼくが出かけるときも、下を向きぼくを見ないで泣いていました。ただそのシーンだけを、やはり鮮明に覚えているのです。何の感情もなくね。


 少年期を過ぎ、青年期に入る頃、ぼくのそのシーンには感情が入り込んできました。たいへん辛いことです。数行の文章にすることはかんたんです。でもそれはね、それはやはりとても悲しいことです。けれど人でなしのぼくは、その日の朝、ニコニコしながら、知らない女の人たちと、動物園に行きましたよ。


 人でなしには天罰がくだります。動物園からの帰り、ぼくは知らない家に連れて行かれました。途切れ途切れの記憶ですが、たぶん家に帰りたいとしつこく言っていたのでしょう。怒った顔の男の人が一言

「今日からここがオマエの家だ」・・・ と。

 いくらお願いしても天罰は取り消せませんでしたね。その日から、ぼくは、その女の人会っていません。会えませんでした。


 誤解をされるといけないので少し説明をしましょう。新しい母はたいそう優しく、ぼくを他の兄弟同様、基本的なところではわけ隔てなく接してくれました。父も同様でしょう。けれど人でなしのぼくは、やはり映像を持ち続けました。意思の外にある記憶の映像は、消し去ることが出来なかったのです。


 同様の出自の方々に時折見られる陽気な性格は、ただ表面的なものであることを学んだのは、ずいぶんと後になってからです。内面の映像がそうさせるのだとぼくは理解しています。人でなしであり続けたぼくは、育ててくれた親の、愛情でイッパイの未来へ続くレールを、やはり踏み外しました。意思を持ってね。


 幸福とは自由に記憶を消せること。ぼくはそう考えます。嫌な記憶はぜんぶゴミ箱にドロップし、ゴミ箱を空にして・・・なーんて、そんなことが出来ればさ、世の中は幸福だらけだよね。本気でそう考る。


 育ててくれた数学者の父はよく言っていました。「世界平和なんて簡単だ。全人類が共通の世界観を持てばいいのさ」と。確かにそのとおり。でもぼくは付け足したい。それはそうだけど、共通の世界観を持つ前の、個人の、地域の、民族の、それら特有の、うんと蓄積されたマイナスの世界観を消去する方法が必要なことをね。