老人と雪

               


          老人と雪


少しばかり過ぎてしまいましたが「2月26日」この日は、もうすぐ3月だというのになんとも寒い1日でしたね。 昭和11年2月26日のこの日も、今年同様、帝都東京は雪でしたよ。でね、この日わが国で起こったことを知る人は・・・というより関心がある人は、残念だけどもうあまりいません。


もちろんぼくも生まれてはいません。けれど20代前半に知った「北一輝」を、生涯の師の一人と考えるぼくには、とても大事な日です。ほんとうはそれほど問題なんかないのだけど、世間ではすこしばかりそのあたりの思想は危険なようで、なので、ぼくは一人、家族にも内緒で深く思索する日でもあります。


その日、帝都の主要な場所に散開して行動した部隊のなか、銃座を雪の上にたて、冷えた機関銃を握り締めていた青年がいました。いわゆる反乱軍兵士の一人です。上官の命を受け、それでも世直しの手伝いをせんと、もえるような意気を持ち機関銃を熱くしていたそうです。未曾有(みそう)の軍事クーデターでした。


その老人とお話しするようになったのは散歩がきっかけです。老人は2・2・6に参加したその若き熱血兵士の一人です。もっともお話しするようになったのは、始めて会った日から1年以上も過ぎていましたね。


その日の雑木林はやはり一面の雪でした。飼い犬のケンタクンは嬉しくて、走り回りたくて、ぼくを見上げます。冬の雪の日はチャンス到来。ぼくは彼の胴輪をはずし自由にさせてあげました。あのね、こんな日は、世間のヤワな犬連れ散歩人はめったに出かけませんからね。


それでもびっくりするほどのスピードで彼の姿が見えなくなると心配です。慌てて追いかけ名前を呼びました。

「ケン!ケーン!」 しばらく走るとケンタクンがいました。老人と一緒です。ぼくは瞬間ドキッとしましたね。なにしろケンタクンは大型犬で、熊みたいで、犬嫌い人嫌い猫ぎらいの特殊犬なのです。でもって飼い主に似ず・・・とにかく獰猛で怒りっぽくて女好きで暴れん坊なのです。ふう。


ぼくは慌てて駆け寄り、老人に怪我がないかとっさに判断をしましたが、すでに駆け寄りながら感じていたとおり二人はなんだかとてもなかよく談笑していたようです。ハハハ ハハハ ・・・


とにかくぼくはケンタクンに胴輪をつけ、その老人に丁寧にお詫びをすると。

「なになに、カシコイなこいつは。いいやつだ」

「悪さはしませんでしたか」

「なになに、ひさしぶりに構えたが、いいやつだな、こいつは」 と、ニコニコと応答してくれましたよ。とにかく昨今はちょっとのことで大変な騒ぎになるご時勢ですから、ぼくはドキッとしたことを素直に申し上げると、老人はニコニコと「なになに」と言いながら手を振り去っていきました。


なんという偶然でしょう、この日、雪降る帝都で銃座を握り締めていた青年とぼくは知り合えたのです。手を振って去っていった小柄な老人です。もちろんいまでも老人は多くを語りません。でもぼくにはわかります。その秘めた思いがガンガンとぼくにつき刺さります。ぼくはしばらく、その老人が散歩する時間に合わせるように、ケンタクンを連れて出かけました。


頻繁に老人と雑木林で会っているぼくを見て、近所のお節介がいろいろと教えてくれました。2.2.6の生き残りのこと、滅多に他人に心を開かないこと、戦後は農作業に専念し、地元では地主で多くの役職を期待されながらも一切関わらず、平々凡々と過ごしているとのことを。


何も語らない老人はかっこよく輝いて見えましたよ。ぼくはね、老人の気配、景色を感じることに夢中になりました。景色って・・・可笑しいかな。でも風景を感じたかったことは事実。雑木林で杖を突きながら散策する老人の景色をね。だからやはり、ただ感じたかったのです。でもって同じ瞬間を共有できる喜びに浸りたかったのです。


最後に会ったのはもうだいぶ前になります。娘さんらしき人の押す車椅子に乗っていました。久しぶりに会ったケンタクンはなんだかとても嬉しそうで、車椅子飛びかかりました。ぼくはビックリ。娘さんらしい人もビックリ。でも老人は、いつもどおり、「オウ!」と片手を挙げ、ニコニコとケンタクンをなでてくれました。


 老人の屋敷は、我が家のマッチ箱住宅からも見えます。すぐ近くなのです。雪の帝都で騒動があった当日、大日本帝国の重鎮が何人も反乱軍将兵に殺害されました。帝都の主だった場所で見られた黒白の幕が、いつか、ぼくの目の前の屋敷にもひかれるのでしょうね。


身内と言われている人々の派手な結婚式や大げさな葬儀、そしてただ決まりとかで繰り返される集まりに、ぼくはあまり参加しません。生まれながらに持つ人並み以上の感性を制御できないからです。迷惑をかけますから。だからぼくは、そんな日が来たら、ただ・・・黙って散歩に出ます。雪は降るでしょうかね。