コミュニティ

              
       
 
 コミュニティ

 またまた突然ですが・・・とこんなふうに書き始めましたが、たったこれだけ、ほんの出だしなのに、ちょいと立ち止まってしまいました。


あの、こんなふうに、文章の書き始めにですよ 「たいへん突然ですが」 なんていう表現・表記は、はたして正しいのだろうかと、いやはやそんな疑問が頭をかすめてね。なもんで止まったわけです。


まぁ、しかし、ぼくの場合はほとんどが正しくないのです。ぼくは文法や文章作法を、意識して無視することがあるのです。言い訳ではなくて、ほんとにわざとなんです。だから、たぶん読みづらかったり、文章の前に戻らないと理解できなかったり、ぼくが言うのもなんだけど読む方もたいへんだよね。


そのうえこう言っちゃあ何だけど、ぼくの場合の「突然ですが」は、いまにはじまったことじゃありません。しょっちゅうなんです。なもんだから賢明なる読者のみな様には 「また始まったよ」 てなことで簡単に片付けられてしまいます。しまいますが、なにを隠そう、今回も立ち止まろうが立ち止まらず筆を進めようが・・・たいしたことではありません。ハハハハハハ・・・


さてと、とにかくそのとつぜんですが、ぼくは日常をですよ、それこそ平々凡々と、そしてなんとも愉快に楽しく暮らしたいと、常日頃からそうおもっているのであります。まあたいがいの人はおんなじ気持ちだと思うけどね、とにかくぼくもそう思うのであります。けど世の中はね、そう簡単にはいきません。


ぼくは、これでもキチンとした大人になるべくずいぶんと長いあいだ頑張りましたよ。20代前後に思うところがあって少々はりきり、でもって飛び跳ね過ぎたので、少しばかりお灸をすえられたことがありました。でもそれ以降、今日まで、とにかく世間様から後ろ指をさされないよう生活しています。つまり大人社会からの非難を、表立って受けることを極力避けてきたのです。お灸もすえられていません。


でね、そんな毎日を日々暮らす昨今ですが、前々から感じていることだけどとても気になることがあります。


たとえばみなさんは、とつぜんまえぶれもなく、はじめて会う人から、自身の所属やごくごく個人的なことを問われたとしたらどういう気持ちになりますか。たとえばね、よって立つ地域であったり、学校であったり、出自であったりしたらどうでしょう。とつぜん、そして唐突にたずねられたら動揺しますよね・・・ぼくだけかなぁ。


ぼくはけっこうそんな場面に出くわします。でもっていつも深く考え込んでしまいます。


だいたいがさぁ、なんではじめて会った人からですよ、そんな個人的なことを聞かれなきゃいけないんだろ。そう思うんだよね。BUT、でもね、我が大日本帝国では、それはそれほどおかしなことではなく、さらに言えば他人と始めてコミニュケーションをとる前提としての、その手段でもあるそうなのです。なんとも ヘヘー だよね。


 1 「どちらにお住まいですか」
 2 「お生まれはどちらの方で」
 3 「ご両親はご健在ですか」
 4 「何年生まれですか」

 
 1番目はどうにか返答が可能です。2番目の問いもなんとかOK・・・でもないな。ほんとうを言うと、お生まれもぼくの場合は怪しいのです。育ててくれた親が言ってました。


「えと、キミの場合はね、たしか紀伊半島のあたりと聞いたよ、いや違ったかな、イヤイヤきっと北九州地方に違いない」・・・


あの、ぼくはヒミコじゃないんだからね。とにかくそれ以後の問いは、ただただオロオロとし、でもってシドロモドロになり、しまいにゃあうつむくしかないんだね。


 さてと、よく言われることに、「戦後の日本社会は、社会的基礎としてのコミュニティが、どんどん失われている」てなことがあります。でもね、こいつはぼくにとって、まったく「なんだかなぁ」なのです。つまりね、戦前のそれは、あるいは戦後も持ち続けようとしたそれは、ただの村意識そのものだということです。


そこには「異者との共存」あるいは「社会的許容の増大」を目指す、たとえは宮台真治が言うところの「包摂」が、みあたりません。非常に偏ったかたちでの共存、そして多様性を排した許容が有るだけです。


だからね、戦後の我が大日本帝国における社会性の変遷は、ある意味では正しい方向なのです。私たちが住む社会が、村意識から、ほんとうの意味でのコミュニティ、つまり「異者との共存」や「社会的許容の増大」、を多様なる参加のもとになす方向に進むには、どうしても一度、私達が基礎的に持つ古い意識の破壊が必要と考えるからです。


突然ですが、ここらあたりまで書いて、言いたいこといって、ちょっと立ち止まりました・・・


え、なんですか、もっとはやく立ち止まれって。そいつは失礼をいたしました。ちょっとえらそうだったかなぁ。