雨・帰り道


雨・帰り道


雨がいまにも降りそうな午後、ぼくはいつのものように散歩にでました。もちろんケンタクンもいっしょです。


この数日雨が続きましたね。なもんで散歩コースはぬかるみだらけ、ぼくはすこしばかり洒落た、つまり昔からある真っ黒な長靴ではなく、黄色いラインが上の方に付いていたりする今風の、ちょっとばかしオジサンには気恥ずかしい長靴を履いて出かけました。


この時期にしては、そうだね、いつもの年と違って、ぜんぜん夏らしくないこの8月だからかなぁ、けっこう冷たい雨に途中で出会いました。出会いましたって・・・なんておかしいかな。まぁ、いいや。でね、それでもぼくは歩きつづけましたよ。雨ガッパもなしで。なにせいきなりのザーザー降りでしたから。


そうだ、お知らせしなければいけないな。このコラムの雑文が、ときどきとんでもなく長いあいだ更新されないことがあります。最近はときどきでもないかな、とにかく前回の更新からだいぶ経ってしまいました。 


じつわね、ぼくはまたしばらく病気だったのです。いわゆる精神の病気です・・・ちょっとちがうな。精神の病気にはちがいないのだけど、それはぼく自身のたいへん身勝手な自己判断での診たてで、いわゆる世間様が理解している精神の病気とは違うのです。


あ、いや、基本的にはそれほど違わないのだけど、その病の結果としての、社会に与える影響という、それこそほんとに小さな枠組みの中では、少し違います・・・なんだかややっこしいな。


とにかく大きな意味ではいっしょかもしれませんが、拘束して強制入院させるのはかわいそうだな。そこまでは必要ないだろうな、たぶん。といった、まぁその程度の説明がいちばん無難なところであるところの精神の病です。


ただね、それでもぼくのそれは、ぼくにとってはたいへん複雑で重たい病であることには違いなく、だから深く悩むのです。なにしろひどいときは、雑木林に住まう悪漢黒カラスの集団が、ただ鳴いているだけなのに、なにかぼくの悪口を言っているに違いないと、それこそ深く深く悩むほどですから。


60を前にして、そんな時期がときどきあります。気のせいかその発生する頻度が、だんだんあがってきました。ちょっと前に社会復帰(これも自己流の身勝手診たて)できたばかしなのになぁ。まいったなぁ。


長靴をはいての散歩は、足元のうっとうしさはあるけど、それ以上に水たまりをジャバジャバ歩けることの嬉しさの方が断然勝っていて、病が回復しつつあるいまでも、いえ回復しているときでも、ぼくはわざとジャバジャバさせて水たまりを歩くのです。けどケンタクンはね、露骨に顔をしかめます。水がかかるのが嫌みたいです。だから怒ります。


基本的にぼくよりも大人であるケンタクンは・・・えーとですね、はじめてこの雑文をお読みになる人がいて、それでもって「ケンタクン」とは何者だと、首を右45度にカタムケ(右に)、でもって人様をカタカナで表記するなどけしからんとばかり机を叩く方がおられるといけませんね。


あのじつは、なんとケンタクンは犬なのです・・・けど限りなく人間に近い犬です。犬ですがぼくにとっては相棒で親友で仲間です。最近は父になりつつもあります。相棒と親友と仲間の違いはよくわかりませんが、とにかく大の仲良しなのです。人間以上です。


それからケンタクンの発音ですが。ケ ン タ ク ン です。ケの部分が強勢となります。けっして ケ ン タ ク ン などと言って、語尾のクンを強勢として発音しないようにしてくださいね。ケンタクンではアフリカ犬になってしまいますからね。


 キチンとした大人犬のケンタクンは、最近は、ぼくの行いを黙ってみていませんよ。オヤジの水たまりジャバジャバ歩きには、本気で牙をむき出し、ぼくを制止させようとします。やめないと飛び掛ります。ほんとです。このあいだなんかは、ぼくは見事に水たまりに転がされ、全身ドロだらけになり、泣いて帰りました。ほんとです。


とにかくケンンタクンとぼくでは、最近はまるでぼくの方がお子様で、このごろは彼に引かれて歩いています。逆転しているのです。いままで彼が生まれてからずっとぼくはお父さんでした。ちょっと前に兄弟になり、仲間になり、弟になり・・・たぶん、これからは、もっともっと立場が逆転するのでしょう。


人間同士の付き合いと比べてしまうと、ぼくらはそれほど長い年月いっしょにいたわけではありません。けれどもたいへん一方的で、かれには迷惑だったろうけど、ぼくは深く、濃く、繊細に接しています。でね、できることならそれらが彼にとって、迷惑の度合いより、「楽しかった・嬉しかった・愉快だった」なんて感じてくれると嬉しいです。


そんな昨今ですが気がかりはね、言葉でキチンと言い表すことが出来ないけど、精神の奥深いところに不安が芽生えていることです。そう感じます。たぶんそんな気持ちにさせる要因なのでしょうか、最近はちょっとした気持ちの隙間に、ケンタクンとの日々の回想が入り込んできます。隙間のわずかな時間に、彼との毎日が走馬灯のように回想されるのです。


ぼくには、いわゆる動物的なカンが人並み以上にあります。これは自信をもって断言できます。それは人生のアチコチでぼくを助けてくれましたから。だから、だからうんと不安なのです。ひょっとしてもうそんなに長い時間が、ぼくらには残されていないのかもしれません。


とにかくぼくは幼子のように、何時までも人間の家族とおなじように一緒にいたいと日々念じています。なにがなんでも彼がずっとぼくのそばにいてくれることを、いつも、そしていつまでもそうあることを願っているのです。


急な信心でたいへん恐縮ですが、仕事場で拾ってきた木っ端で神棚を作りました。でもって毎朝お茶を供えています。玄関から出るときは胸に手を当てクロスをきります。絨毯があればひざまずきアラーに祈りを、道端にお地蔵さんを見つれば手を合わせます。


不謹慎と言われようが、神を冒涜していると言われようが、火あぶりにされようが、百叩きの刑を宣告されようが平気です。彼がいつまでも元気であってほしいからね。


雨が続いてぬかるむ道は、運動靴では荷が重すぎますね。黄色のリボンが付いていようと、だんぜん長靴がその真価をはっきします。だからとつぜんの雨なんかへっちゃら。黄色リボン長靴のおかげで足元だけは軽快でした。



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