届くかもしれない午後

 
         



 届くかもしれない午後


 高速道路だけど平日なのにゆったりです。車が少ないからでしょう。だから遠くの景色も、空も、いつもより余裕で観察できます。観察なんて言うとたいそうだね、ただ、ぼくは、そうやって遠くを見ることがすきです。大空、特に青い空には、多少でも雲が必要だよね。唐突に思われるだろうけど、ぼくはそう思う。

どこまでも青く、どこまでも透き通った青いだけの空はね、きれいだけどただそれだけ、どんだけがんばっても青一色の壁面からは、何かを多少想像したとしても、けっして何かを創造するができないと思っている。気持ちのなかでね。


連休明けの外環(東京外環自動車道)を走っています。仕事です。夏と違い、秋の空は、どんどんと手の届かない彼方に沈んで、どんどん遠くへ下がっていくような気がするな。なんとも秋だねぇ。でも、なんだかね、沈んでも遠くへ下がっても、それでも高くなっていく空を見ながら、雲があることでしか感じることが出来ない、絵としての空を、じゅうぶん満足しながら見ています。


行きかう車も、そしてぼくも、なんだかぼやっとしています。みんな連休疲れかなぁ。空は、多少の雲があっても気持ちよい青がイッパイで、ときおり動画のように、みんなで腕を組み、仲良し雲達は流れて行きます。


三郷から常磐自動車道に入りました。ここもやはり空いていましたね。連休疲れなんだろうなぁ。やはり。きっと。あのさぁ、疲れることって必要だよね。生きる必然といってもいいな。でなけりゃ普段がわかりゃしない。普通がわからないよね。


埼玉の県境から千葉に入ります。流山市(千葉県)を前にした江戸川の河川敷では、いったいなんの合図なんだろう、アチコチで煙が立ち上がっています。敵襲だ。たいへんだ。のろしの合図だぁー・・・違いますよね。だいいちいまどき、のろしなんて言葉さえ、知っている人も少ない。


深く詳しく、うんとそこいらの「のろし」合図方法について学習したい人は、wikipediaでものぞいてください。とりあえず今回ぼくがみた煙は、じっさいのところは野焼きの煙なのです。原っぱのね。おかしなことだけど、ぼくはいつまでも匂いを味わっていたいと感じました。だからわざとゆっくりと走ります、高速道路なのに。懐かしくてね。





ぼくは、もの心ついたころから都会に住み、いわゆる健全な、正しい、由緒ある田舎に住んだことがありません。あのね、都会にも原っぱはイッパイありましたよ。ありましたが、そこは土管なんかが転がっている小さなもので、野焼きをするほどの広さはありません。

でも、なぜかよくわかりませんが、ぼくは野焼きの匂いに郷愁を感じるのです。まるでそれはぼくの生活環境そのもののようにね。生活のなかに野焼きは必然で、だから普段で、だから離れているとどっぷり浸かりたくなるので、だからぼくは野焼きができる広い原っぱに住んでいて・・・ちがうなぁ。


同じようなことが幾つもあります。たとえばとつぜんの冷たい雨に打たれれば、ぼくはいきなり、冬の厳しい浜辺に立ちすくみます、猟師なのです。北国のね。夏の暴力的な日差しは、意地悪く時間をかけてぼくを煮立て、でもって沸点を超えたぼくはいきなり古代ピラミッドの建設作業員となり・・・ここまでになると、やはりそれはぼく固有の問題で、きっとこころに問題があるってことになるのでしょう。


手を伸ばせは届く空は、季節を問わず、いくら精神が偏っていようとありません。わかっていても、キチンとした大人のぼくは、現実に浸かることが窮屈で、なにかを掴みたくて、遠くを見つめます。空に向かって手を伸ばします。手を伸ばせは、がんばってもうちょっと手を伸ばせば届きそうだからです。


秋、まるでもてあそばれているような午後、ぼくは運転をやめ空を見上げました。手を伸ばします。じぶんでは思い出すこともできない記憶のストックがあることはわかっているのです。だから手を伸ばします。きょうも届かない空に向かって。



オッサンへのダイレクトなご感想は以下に
bingo009@gmail.com